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渋柿庵日乗 二


渋柿庵とは

2010年1月2日
 渋柿庵というのは実家の裏庭に大きな渋柿の木があったことに由来して、かなり以前(高校生のころ)に作った雅号です。まだ幼い子供のころには自家用の干し柿作りを手伝ったこともありました。柿の皮を剥き、熱湯消毒してから、軒下に吊るしておくと、ちょうどお正月に食べごろになります。天候まかせなので、秋に長雨があったりすると腐ったりカビたりして干し柿になりません。逆に乾きすぎてしまうと、カチカチになって歯が立たず、お湯で戻さなければ食べられません。なかなかうまくできないので、いつのまにか実家では干し柿を作らなくなってしまいました。
 それ以来、困ったことに勉強部屋にしていた離れの軒に熟した柿の実が落ち、そのたびにドン、ガラガラと大きな音がして目が覚めたものでした。離れを改築したときに、その柿の木はなくなってしまいましたが、干し柿を食べるたび、実家の手作りの干し柿の味や、柿の実の落ちる物音を思い出します。
 子供のころに覚えた味は生涯かけがえのない記憶として、心理の深いところで人間を支配しつづけるようです。つまらないことかもしれませんが、たとえば私は子供のころに遊んでいた実家の近くの山で採れたワラビしか美味しく食べられません。とても不思議なことに他の山で採れたワラビにはなんの風味も感じないのです。生まれた川の匂いを覚えている鮭の気持ちがなんとなくわかります。

 今年の元旦は実家でおせちやお雑煮を食べてすごしました。周辺の田舎の景色は今も子供のころとあまり変わらず、のどかなものです。でも、今にして思うと残土や産廃で谷津が埋め立てられた現場が近くにありました。現場が動いている当時には反対運動の立看板もあったやに記憶しています。かなり古い現場なので小高く積み上げられた残土の丘はすっかり藪で覆われています。アルカリ性の土壌(固化汚泥)のせいなのか、投棄から数十年たっていても高木は生育しないようです。

 実家のある八街(やちまた)は海から遠い台地なので、温暖な千葉県の中では寒冷なほうで、昔は霜柱で畑が真っ白になって、雪景色と見まごうほどでした。真冬には長靴がもぐるほどの霜柱が庭先に毎朝出現したのです。ところが最近はそんな霜柱をまったく見かけなくなりました。わずかな気候の変動も、霜柱の長さには増幅して現れるような気がします。

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渋柿庵主人