I-Method

渋柿庵日乗 二○


1円の英雄

2010年3月11日
 県庁に入って4年目のころ(1985年)、予算額1000億円くらいの特別会計の予算を担当している課に異動した。そこは官庁ではめずらしく、企業会計を使っていて、一番若手だった私は、手書きの帳簿をつけていた。翌年から帳簿が完全電算化されたので、最後の手書き帳簿担当となった。
 異動2年目の決算で、決算額と現金残高が1円合わないという事件が出来した。課員約20名全員で、1000億円分の1円探しがはじまった。1週間徹夜同然で決算書を何度も読み合わせしたけれども見つからない。他の課にまで「決算が1円合わないらしい」という噂が広まっていた。
 明日は課長に決算額を報告しなければならないというタイムリミットがせまった日曜日の夜、担当係長が作業中の全員を招集し、「もうこれが最後だから、思い残すことがないように、なんでも思いつくことをやってほしい。今夜見つからなければ、明日は1円合わないまま決算する」と宣告した。

 私は、いっしょに読み合わせをしていた同僚に「決算書を1枚に張り合わせてみよう」と提案した。
 百ページ以上ある決算書を全部張り合わせると、10メートル以上の長さの幟(のぼり)のような決算書ができた。周囲の先輩たちが好機の目で、私たちを見ていた。
 1ページずつ読み合わせても、1枚に張り合わせてから読み合わせても、結果は同じはずだが、やはり1枚になっていると気分が違う。複式簿記を採用しているのだから、目の前のこの1枚のどこかに、かならず貸借が1円違っているところがあるはずだ。そうでなければ現金との1円違いの説明がつかない。複式簿記の理論を信頼していた私は、一枚に張り合わせた決算書の読み合わせをはじめた。時間節約のため、1の位だけ読んだ。
 2時間後、私が「5」というと同僚が「4」といった。もう一度「5」というと、同僚は震える声で「4」と繰り返した。その瞬間、これだと確信した。先輩たちがいっせいに幟の周囲に集まった。しばらくひそひそと相談したあと、係長と主任だけの会議がはじまった。課内では末席だった私は会議には参加しなかったが、結果はわかっていた。15分後、1円違いの原因が確定した。
 その年の決算の打ち上げでは、私と同僚がまさに1円の英雄だった。



 13世紀ころ、イタリアの自由都市で発明されたという複式簿記は、ベニス式といわれることもある。2年前、ベニスに訪れたことがあるが、地中海交易の中心地だった時代に蓄えられた想像を絶する富に驚いた。数百年たっても色あせることがないあの豊かさに比べたら、うたかたの夢と消え去った日本の80年代のバブルなど、あまりにも小さすぎて悲しい。
 複式簿記は、イタリアで発明されて以来、洗練されながら商業の世界を勝ち抜いてきた。コンピュータの時代になっても廃れる気配はない。世界3大発明は火薬と印刷と羅針盤だというが、私は3番目に複式簿記を割り込ませたい気分だ。

 産廃業者の立入検査に行くと、会計帳簿など見たことがない社長がわりと多かった。財務諸表や会計帳簿を検査し、そこからわかる経営上の問題点を次々と指摘すると、それまでふんぞりかえっていたヤクザな社長が、身を乗り出すように私の講評に聞き入った。
 なかには「県庁を辞めてうちの会社に専務で来てくれ」と言い出す社長もいた。さすがに不法投棄をやるような会社の専務になるつもりはなかったので、笑ってお断りした。
 ゴミは捨ててもお金は捨てない。会計帳簿には不法投棄の証拠が必ず残っている。これが現役産廃Gメン時代からの私の信念で、数百億円の不正処理を帳簿から発見してきた。「石渡に検査されると会社をつぶされるそうだ」そんな噂が流布されるほど、私のチームの検査は無敵だった。だが、その原点は、あの1円探しだったかもしれない。そしてそれが、I−Methodの開発につながっている。



 1円を笑うものは1円に泣くというが、30年前に同僚と2人で10メートルの決算書から見つけた1円は、私にとってとほうもなく大きな宝物へと育ってくれたような気がする。あの1円を見つけられてよかったと、いまでも昨日のことのように思いだす。

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渋柿庵主人