I-Method

渋柿庵日乗 二一


幸福論

2010年3月17日
 先週の金曜日(12日)「幸福の条件 他者との関わりの中であなた自身の「自由」と「自尊心」と「多様性」そして「幸せ」を育む」と題された、およそ私らしからぬワークショップに参加した。主催者は社団法人日本家庭生活研究協会、ファシリテータは、首都大学東京の宮台真司氏と、構想日本でお近づきになった西田陽光氏(同協会常務理事)だった。
 正直なところ、私にはいささか場違いなワークショップだった。間違って上がってしまった催眠術ショーの舞台から降りるに降りられなくなってしまったといった心境だった。

 宮前氏は、冒頭「快楽は代替がきくが、幸福は代替がきかないかけがえのないものだ」と言った。さすがにこれはいいつかみだなと思った。最後には「かけがえのない幸福とは、普通の日常だ」としめくくった。

 途中経過をはしょったので、このワークショップの真意は伝えられないが、幸福の定義をあっさりと言うとは思っていなかったので、ちょっと意外な感じだった。しかし、とりたてて珍しい結論ではないし、意味があるようでないような曖昧な結論だと思った。
 じゃあ、普通の日常とはなんなのか。とほうもない難病で苦しんでいる人にとっても、かけがえのない伴侶を失ってしまった人にとっても、その日常が幸福なのか。懐疑主義の自分としては、どんどん疑問がわいてきた。 
 普通の日常の幸福なんて生温いものは、めぐまれた生活を送っている人のたわごとで、大きな不幸に見舞われたら、ひとたまりもないものではないのか。



 幸福論は科学ではない。幸福論は進歩しないし、1つの結論に集約されることもない。
 いろいろな幸福論を読んで、それを自分の人生に照らし合わせて考えるのは、意味のあることだと思う。何か1つの幸福論だけに、だれか1人の幸福論だけに集中してしまうと、宗教にとても似たものになるし、むしろもうそれは宗教だと言ってもいい。宗教がすたれないのは、宗教が真理を説いているからではなく、宗教が真理の名を借りて幸福を説いているからだ。

 学生時代、ヴィクトール・E・フランクルというドイツの精神分析学者・思想家の本に、ちょっと関心を持ったことがあった。フランクルはユダヤ人で、強制収容所の実経験を原点として精神理論を展開した人だ。強制収容所という非日常の極限状況でも幸福はあったというのが、その理論のベースになっていた。ドイツの思想家らしく、とても硬派な理論で、意味を創造できなくなった人にもまだ、意味を摂取するという幸福が残されているという限界状況での幸福論を説いていた。
 本の内容は、だいぶ昔に読んだもので正確に紹介できないが、みすず書房から何冊か出ていたはずだ。とくに強制収容所体験を書いた「夜と霧」は感動的な名著で、長く思想史に残ることだろう。幸福を考えるときには必読書だと思う。

 幸福と言うと、円地文子のこんな言葉も思い出す。
 「人間は自分を理解してくれた人に支配される」
 これより深く胸につきさささる人生の達観を知らない。普通の人はもちろん、どんなに傲慢で残酷な独裁者も、その結末を見ると、自分を理解してくれた人に支配されていたのではないかと思えてならない。
 さっき、難病患者にも幸福な普通の日常はあるのかと書いた。もしも、自分を理解してくれる人に出会うことができて、その人が最後までずっとそばにいてくれたなら、きっとそれでも幸せな日常だったのではないかと思う。

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渋柿庵主人