I-Method

渋柿庵日乗 二九


生と仮想

2010年5月6日
 ゴールデンウィークはのんびりすごした。といっても、もっぱらパソコンをかかえて地元の喫茶店めぐりだった。探せば地元にだって行ったことがなかった喫茶店もあるものだった。おかげでコーヒーに胃をやられた。なんにもしないでゴールデンウィークを終えるのもさびしいかと思い、新国立劇場バレエ団の「カルミナ・ブラーナ」を初台の新国で観た。
 音楽こそヨーロッパの古語で書かれた世俗曲のカンタータだが、モダンとブロードウェイを融合したような、わりと新鮮な振り付けや衣装が印象的なバレエだった。オーケストラも生、ソリスト歌手4人、合唱団も生という贅沢な舞台だった。新国バレエ団のダンサーはみんなチャーミングな若手で、軸になる名人はいない。それが魅力でもあるし欠点でもある。前回は「コッペリア」を、ほぼ同じダンサーで観た。国立というわりには質素な劇場で、地方の文化会館とあんまりかわり映えがしないのが、いつもかえって愉快に思う。オペラの舞台装置はすべて意味もなく保存されている。そんなところに金をかけるところはさすが国立だ。保管庫は不法投棄が多かった銚子市にある。そこに旧軍用地つまり国有地があったからだろう。

 趣味というほどのこともないが、舞台は、だいたい毎月1回のペースで観ている。映画館に通うよりは、劇場やショーパブに通うほうが多い。ジャンルは、演劇、ミュージカル、ダンス、サーカスなど、とくに問わないが、コンテンポラリーのほうがクラシックより好みだ。
 ビジネスとしては、リアルなステージは、ヴァーチャルな映画に負けている。生身の人間は同時に1万ヶ所のステージに立てないので、一度に何万人も動員できるスーパースターでないかぎり、何百億円も興行収入を上げられない。それどころか、赤字ってこともある。たぶん、カルミナ・ブラーナも税金で補助してもらっているような気がした。
 映画はどの席で観ても感動はあまり違わない。「アバター」が最近話題の映画だが、3D映画は座る席にまったく差別がない。ところが、舞台は座る席で見え方がかなり変る。最前列だと、俳優やダンサーの息遣いまではっきり聞こえ、汗が飛び散ってくることも珍しくない。真ん中よりやや後ろの席だと、舞台全体の演出効果がよくわかる。ダンス系なら2階席から俯瞰するのも悪くない。カルミナ・ブラーナは14列中央、ほぼ演出家が座るポジションで観た。



 バーチャルとか、サイバーとか、3Dとか、どんどん仮想現実の技術が進歩し、仮想現実の中だけで完結する都市や経済が形成されつつあるというし、仮想現実の大統領が世界戦争のボタンを押す日がこないとも限らない。
 人間はDNAのレベルではチンパンジーと1.44%しか違わず、大腸菌やニンジンともあまり変らないれっきとした生物だが、太古の昔から人間は自分が動物の仲間であることを否定してきた。
 世界のほとんどどの国の神話でも宗教でも、人間は神の姿を模して創造されたことになっている。仏教でも人間と畜生は差別されていて、人間だけが成仏できる。つまり、人間は動物ではないという仮想現実の中で、人間はずっと生きてきた。
 ステンドグラスが飾られた大聖堂にしても、アンコールワットにしても、東大寺の大仏にしても、世界中に残っているあらゆる宗教的な遺構というのは、その時代なりの仮想現実だった。偶像崇拝を否定するイスラム教も、宗教を否定する共産主義も、仮想現実世界を構築していることに大差はない。仮想現実こそ人間がずっと求め続けてきた理想郷だ。
 だけど、宗教だろうと政治だろうと芸術だろうと経済だろうと、仮想現実には必ずカラクリがあり、そのカラクリを背後で支えている巨大な組織があって、その組織自身は仮想現実に騙されることなく、それを民心操作の道具、あるは金儲けの道具だとわりきっていた。これが現実だということも忘れてはならない。



 舞台芸術が3D映画にとってかわられるかどうかなんてことは、あまり心配していない。3D技術によって舞台芸術が複製可能になり、後世に残せる財産になったことは、舞台芸術家にとってむしろ福音だ。2D映像の記録ではリアルな感動をもって観ることができないニジンスキー(1950年没)とかベジャール(2007年没)とか、舞神と言われた人の舞台が、3Dヴァーチャル舞台として復活する日が来ることを、実は楽しみにしている。

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渋柿庵主人