I-Method

渋柿庵日乗 二八


朝令暮改

2010年4月23日
 朝令暮改と聞いて民主党を連想する人が多くなったのは、国民にはとても不幸なことで、笑っていられる話ではない。
 それにしても、高速道路料金の考え方がニュースを見るたびに変る。朝令暮改という言葉を考えた先人の知恵に脱帽だ。

 自民党(麻生政権)が実施した休日ETC1000円上限割引は、休日のマイカーのドライブ需要とETC需要を刺激した。
 民主党の総選挙マニフェストに書かれていた高速道路完全無料化は、物流コスト低減が狙いだったが、財源の問題から実施が先送りになった。それでも参院選マニフェストでも生き残るようだ。
 自民党の政策は、市場をセグメント(分割)し、ターゲットを絞り込んだキャンペーンで、マーケティング戦略としてなら面白いものだったが、最初から恒久的な制度とすることは考えていなかった。
 民主党の政策は、是非はともかく、政策の体をなした普遍性のある政策だった。ところが財源不足から突然出てきた上限2000円割引は、短距離は値上げ、長距離は値下げという問題がある内容で、文字通りの朝令暮改となりそうな雲行きとなった。たとえて言えば、飛行機の国内線を値上げして国際線を値下げしようというものだから、国内線のユーザーから支持されるはずがない。



 一般に物流や交通の料金というのは、距離に応じて設定される。
 ところが、コストは距離に応じてはかからない。地下鉄で1区間乗って降りても、10区間乗って降りても、地下鉄会社のコストは同じだ。地下鉄のコストのほとんどは駅と車両のコストで、運行時の電気代はわずかだからである。
 飛行機も離陸と着陸のときに大量の燃料を消費するから、国内線と国際線は、飛行距離が違うほどにはコストは違わない。
 それなのに距離に応じて料金を設定するのだから、短距離は儲からず、長距離は儲かるということになる。
 こういう構造は他の分野にもある。たとえば自動車を製造するコストは、大型車でも小型車でもあまり変わらない。開発費は同じだし、組立工賃も同じだ。大型車の鉄の重さが何倍違ったからといって、それがコストに占める割合はわずかだ。だから大型車は小型車よりも利益が大きい。
 しかし、どの業界でも、コストベースの価格にしていないのは、ユーザーがそういう価格を望まないからである。たとえば大型車も小型車も同じ価格であることをユーザーは望まない。国際線は国内線よりも高く、新幹線は東京−名古屋よりも東京−大阪のほうが高い価格であることを望ましいと思うのである。
 だから、コストがたいして変らないからといって、高速道路料金を短距離でも長距離でも同じ価格にしたら、ユーザーに不平等感を与え、高速道路の需要の構造を破壊してしまう。ただし、その料金が食べ放題バイキングのように、一口食べただけでも元が取れるほど安い場合は、爆発的な需要になるだろう。



 マスコミには、高速道路料金の朝令暮改を、民主党政権の欠陥と批判する論調が多いように思うが、私はそう思わない。
 朝令暮改になってしまう理由は「意思決定ルールの不在」である。これは民主党の欠陥というのではなく、日本のあらゆる組織が陥っている「日本病」の根本病因のひとつである。
 対話編の最高峰とされる「国家」のなかで、プラトンは、哲人支配、名誉(軍人)支配、寡頭(貴族)支配、民主支配、僭主(独裁者)支配の5つを区分した。ラファエロの「アテネの学堂」で天を指差しているプラトンが考えたとは思えないほど、地に足がついたリアルな理論である。この理論に後世の学者が加えたのは官僚支配くらいである。
 この5つ、あるいは6つは、意思決定のルールだともいえる。プラトンはリーダーが優れているなら独裁制がよく、逆ならそれが最悪だと言った。
 独裁制と民主制のいいとこどりをした制度を民主集中制と呼ぶことがある。リーダーを選ぶときは民主的だが、選ばれたリーダーは独裁者のように振舞う。つまり大統領制のことである。大統領制が優れているのは、大統領の選び方ではなく、選ばれた後の大統領の意思決定のスピードが早いことである。しかし、オバマ大統領にだって朝令暮改はあるのだから、日本の民主党が朝令暮改でもしょうがない気がする。
 日本が世界の潮流から置き去りにされつつある理由として、意思決定のスピードをあげる人が多くなっている。政治も、行政も、そして企業も意思決定が遅い。遅いどころか、意思決定のルールがない。そのためにあらゆる問題が朝令暮改になってしまう。
 民主党政権はどうやら人気が急降下中だが、政権発足時には日本の意思決定のルールを変えようという意気込みがあった。その初心を忘れなければ、まだふんばれるかもしれない。



 民主党は八ツ場ダムをはじめとする国のダム事業をすべて凍結し、高速道路や国道の改築事業でもそうしようとしたが、これもまた朝令暮改になりつつある。
 個々のダム事業が必要であるのか、道路事業が必要であるのか、それをいまさら議論するということが、そもそもおかしいと気づかないといけない。実はどのダムも、どの道路も、その事業に着手したときの意思決定が曖昧である。なんとなく決まってしまった事業を、その後の情勢変化でいまでもまだ必要であるかどうかの検証をせずに、だらだらと続けていることが多いのである。つまり、最初の意思決定もなく、途中の意思決定もない。もとより事業を止めるという意思決定ができるはずもない。多いというか、全部がそうであると言ってもいいと思う。
 民主党はこの異常な事態を、「構想の日本」というシンクタンクが育ててきた事業仕分けという手法を取り入れて整理しようとしている。これは無意味ではないが、根本的なところではなにも変えられらないキャンペーンに終わりそうな気がしている。
 ほんとうに必要なのは、存在しない意思決定のルールをまず決めることである。事業仕分けは外部の監査にすぎず、意思決定のルールではありえない。事業仕分けで国の進むべき方向を決めるのは自殺行為だ。



 それじゃあ、どんな意思決定のルールが必要なのだろうか。
 別に難しいことではない。国であれば大臣に、自治体であれば首長に、会社であれば社長に、意思決定の当事者は自分であるという自覚があるかどうか、責任をとる覚悟があるかどうか、それだけのことである。
 驚くべきことに、もう決まってしまったことのように、さまざまな案件を機械的に大臣や首長や社長に上げるのが日本流になってしまっている。それじゃあ、大臣や首長や社長にあげる前に、誰かが大臣、首長、社長のかわりに責任をとる仕組みがあるのかというと、それもない。これがプラトンは思いつかなかった官僚制である。最後はボスが責任を取るという原則が失われなければ、官僚制はもっとも現代的な意思決定システムだ。日本が戦後の高度経済成長を成功させられたのは、最後は政治が責任を取るという仕組みに支えられた官僚制が機能していたからだ。今はそれが機能していない。
 日本を朝令暮改の国にしてしまったのは、あらゆる組織に浸潤してしまった責任の曖昧さ、意思決定ルールの曖昧さだ。民主党はむしろそれを変えようとして変えられずにいるだけなのだと思う。

先頭のページ 前のページ 次のページ 末尾のページ
渋柿庵主人