I-Method

渋柿庵日乗 三○


未来観の欠如

2010年5月7日
 小学生の頃、僕の愛読書はジュール・ヴェルヌのSFだった。全集が出ていたから、ほぼ全作品を読んだと思う。当時の僕にとってあこがれの人物は、マンガのヒーローじゃなく、潜水艦ノーチラス号のネモ艦長だった。まるで原子力潜水艦を知っていたかのような小説をよくも1870年に書けたものだと思う。
 どうでもいいことだが、僕の中ではアレクサンドル・デュマのモンテ・クリスト伯(岩窟王)とネモ艦長が重なる。モンテ・クリスト伯が、その莫大な富でノーチラス号を建造し、ネモ艦長になったという裏ストーリーが、とてもしっくり来る。2人の女性観が似ているような気がする。
 モンテ・クリスト伯の一番好きな台詞は「メルセデスは2人いる」というものだ。
 メルセデスはモンテ・クリスト伯の青年時代の婚約者だが裏切られてしまう。メルセデスは2人いるというのは、生涯最愛の恋人は2人いるという意味だ。2人なのに最愛というのは形容矛盾だが、そこに深い含意がある。

 恋愛感には、一人派(メルセデスは1人しかいない)と、二人派(メルセデスは2人いる)がある。これはどちらが正しいということではない。派閥だ。
 さらに二人派の中にも派閥がある。この生涯最愛の2人の恋人は似ているという一致派と、似ていないという分離派だ。
 ちなみに精神分析の開祖ジークムント・フロイドは二人派の中の一致派、同じ精神分析家でもカール・グスタフ・ユングは分離派だったように思う。
 愛には同じものに魅かれる愛と、違うものに魅かれる愛がある。それが一致派と分離派の違いになる。
 皇太子が「価値観の共有」を伴侶の条件に挙げたことがあった。彼は一致派だったようだ。
 シモーヌ・ヴェイユというフランスの哲学者は「愛とは愛する者と自分との距離を愛することだ」と言った。彼女は分離派だったようだ。
 恋愛論を長々と述べたのは、ネモ艦長とモンテ・クリスト伯が似ていると感じた理由を説明したかったからである。二人はたぶん二人派の中の一致派だった。



 何回か前のこのブログで、民主党のニュースがおもしろいと書いた。
 とても残念なことに、このごろ、おもしろくない。民主党が未来を語るのを止め、党首が宇宙人であることをやめてしまったからだ。
 高速道路を無料化する、ガソリン上乗せ税を廃止する、子供手当てを支給する、農家に所得保障する、高校の授業料を無料化する、普天間基地を沖縄から追い出す、ダム事業をすべて廃止する、官僚の国会答弁を禁止する…実現できるはずがないSFだとわかっていても、おもしろかったし、整合性はとれていなくても、一つ一つにはそれなりに理屈があった。一番おもしろくなかったこども手当てと授業料無料化は実現したが、それで日本の未来が変ると思っている人は一人もいない。

 日本の未来の大きさを左右する最大のボトルネックは、少子化問題、農業問題、安全保障問題の3つだから、民主党の着眼点はよかったのだ。
 それがここまでつまらなくなってしまったのは、未来観の欠如じゃないかと思う。どれも日本の未来を作るための政策だと訴えてきたはずなのに、財源がどうとかこうとか、官僚的な目先の議論になってしまった。事業仕分けが夫の小遣いを削ってへそくりを作るための主婦の家計簿になりさがったあたりから、おかしくなってきた。ほんとうに日本の未来を作ってくれるなら、財源なんかどうだっていい、借金をいくらしたっていいのだ。
 参議院選挙を前にして、新党がブームになっているが、未来を描いて楽しませてくれる新党が見当たらない。倫理とか、分権とか、改革とか、目先の話題にパッチを当てているだけの新党はおもしろくもなんともない。
 実務は官僚がやるのだから、政治家にはできもしない大風呂敷でも絵空事でもなんでもいいから、でっかい未来を描いてみせてほしい。官僚と区別がつかない実務的な政治家はうんざりだ。
 プラトンは哲人が支配者になるのが理想だといったが、SF作家みたいな首相は現れないものだろうか。

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渋柿庵主人