I-Method

渋柿庵日乗 二五


命のポイント

2010年4月9日
 「JCII(財団法人科学技術戦略推進機構)から未病社会の診断技術研究会へバトンタッチシンポジウム」という、世にも奇妙な題名の案内が届いたので、7日(水曜日)、半日仕事を休んで参加してみた。どうやら事業仕分けでJCIIの健康・医療専門部会が廃止されたため、新しい任意団体に引き継いで再スタートを切ることになったらしい。産廃Gメンがどうして医療のシンポジウムに参加?と思われるかもしれないが、実は私の職務経験で産廃の次に長いのは医療だ。
 (事業仕分けの理由はわからないが、JCIIは経済産業省系の公益法人なので、厚生労働省系の仕事はやめなさいという仕分けになったのかもしれない。)

 一人目の講演者となられた日経BP社医療局主任編集委員の宮田満氏は、ゲノム医療や抗体医療などの先端医薬品の分野でのターゲット(治療薬の標的となるたんぱく質や核酸)の発見者は、阪大などの日本の研究者が多いのに、商品化となるとほとんどすべて欧米の製薬メジャーに奪われていると指摘されていた。
 日本は基礎研究や基礎技術は一流国だが、それをビジネスモデル化することは三流国だというのは、どの分野でも聞かれる指摘だ。たとえば逆浸透膜の製造では日本のメーカーが独占的なシェアを誇っているのに、海水淡水化プラントの受注となると他国に大きく遅れを取っている。どうやら医薬の分野でも他聞に漏れずということらしい。
 世界の製薬市場では、ファイザーなど大手6社が次々とM&Aをしかけて世界市場占有率を高めており、日本の製薬会社も大半が外資に事実上買収されている。さらに製薬メジャーは、これから診断薬メーカーの買収も進めようとしているそうだ。DNA解析やターゲット診断薬による個人医療(個人の遺伝的資質に応じた病気の予防と治療)が、これからの医療の主役になるとみられているからだ。
 製薬業界はかつてはきわめて利益率の高い業界として知られていた。化学合成剤なら、1000円で売っている薬の原価は1円だ。そのかわり、新薬の開発費は484億円という推計(日本製薬工業協会医薬産業政策研究所調査)もあり、中小企業は生き残れない業界となっていた。
 ところがジェネリック医薬品の普及によって薬価が低落し、医薬業界も曲がり角に来た。そこで製薬メジャーが目を付けたのが、生物学的製剤(ワクチン)やターゲット医薬品なのだそうだ。化学構造を真似ればいいというわけにいかないので、ジェネリック医薬品が作りにくいのだ。



 なぜ、最近になって、どの分野でもメジャー(国際寡占企業)による世界市場占有率が急に高まっているのか。それにはさまざまな理由があるだろう。国家の垣根が低いグローバル社会になったこともあるだろうし、インターネットによって世界のどの地域でも情報に格差がないフラットな情報社会になったこともあるだろうし、新興工業国の急激な経済成長で資源価格が高騰し、資源や食料や水の枯渇が現実味を帯びてきたこともあるだろうし、国際金融市場の発達により、M&Aのための巨額の資金調達が容易になったこともあるだろう。
 とにかくあらゆる分野で世界経済の寡占化がはっきりと進んでいる。BHBビリトンなどの資源メジャーは鉄鉱石をはじめあらゆる鉱物資源の8割を独占し、カーネギーなどの食料メジャーによる穀物の国際市場占有率も同様である。石油では旧来のセブンシスターズに代わって、産油国や中国などの国営企業を中心とするニューセブンシスターズの占有率が急速に高まっている。

 資源、食料、医薬品など、生活の基盤をささえる物資が少数の企業によって独占される時代がすでに始まっており、投資銀行や国家ファンドなどの金融メジャーと資源メジャーがタッグを組んで世界を支配しようとしている。サウジアラビアやUAEのような資源国、中国やベトナムのような新興経済国が、このゲームのスタープレーヤーとして登場し、世界第2位の経済大国だったはずの日本よりもはるかに大きな影響力を世界経済に及ぼしている。新興経済国の国営投資会社の業務は、モルガン・スタンレーなどのアメリカの金融持株会社となんらかわらず、採掘権の入札や資源メジャーのM&Aに果敢に参入し、勝ち抜いている。
 むしろ日本は、こうしたダイナミックな経済覇権ゲームの圏外に置かれているという印象すら持つ。日本がだめになった理由はいっぱいある。政治家にビジョンもリーダーシップもなく、省庁は縦割りで動きがとれず、自動車、電機、商社など一部の業種を除いて、企業の経営規模が小さすぎる。国がだめなら自治体に未来を託せるのかというと、中小企業と兼業農家の経営を守ることが自治体の使命だと勘違いしている。船体が漂流しているのに、船室を守っても意味がない。

 シンポジウムの中盤では、経産省の2人のキャリアが相次いで壇上に上がり、日本の産業の将来を担うのはグリーンとライフの2つだというような話をされていた。血なまぐさい国際経済のダイナミックな動きと比べると、ずいぶんとこぎれいな話だ。経済はグリーンでもライフでもなくマネーだ。日本人がエコノミックアニマルだと揶揄されていた時代の通産省のままでよかったような気がする。



 ゲノム解析のコストは年々下がっており、ヒト全ゲノム解析が、今年の終わりには40万円になるそうだ。しかし、安さには落とし穴もある。シンポジウムの終盤で壇上に立った、阪大名誉教授の松原謙一氏は、DNA診断は検体の精度がすべてだという実務的なお話をされていたが、とても説得力があった。
 最近はエステティックサロンでもDNA診断をやったりする。インターネットで自宅に検体採取キットを送ってもらうサービスもある。検体は解析コストが安い海外に送られるらしい。松原氏は素人が取った検体では信頼性の高いDNA解析はできないと指摘していた。エステやインターネットで申し込めるお手軽DNA検査など、星占いとたいして変わらないままごとで、それを信じたらとんでもないことになりそうだ。

 10年後には、全ゲノム解析を前提とした個人医療が常識となるという。ただし、日本がその先端を走っているわけではない。国民皆保険を死守するために診療報酬や薬価をおさえこむ政策が、先端医療の発展をさまたげており、海外に先を越されている。DNA診断の診療報酬はたった2万円で、これではもとがとれないため普及しない。人工透析は公費負担の制度を作ったために爆発的に普及した。これと同じことをDNA診断でもやるべきというのが松原氏の意見だった。
 エコカーに補助金をつけたり、家電製品にエコポイントをつけてくれたりするのもいいが、命あってのものだねだ。車やテレビは古くてもいいから、すべての国民が無料でDNA診断を受けられて、どの病気のリスクがどれくらいあるのか、どうすればリスクを下げられるのか正確に教えてもらえるような国になったほうがいいのじゃないか。年末には40万円、数年以内に10万円で全ゲノム解析ができるようになるなら、欲しいのはエコポントじゃなく、命のポイントだ。政治も経済も曲がり角に来ているが、曲がり方によっては明るい未来だってある。

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渋柿庵主人