I-Method
天使なのか悪魔なのか |
2010年4月4日 |
前回のブログで原発を擁護するかのような記述をしたことが、ちょっとした波紋を呼んでしまった。 私は4Sという小型原子炉によって、原発が新たな時代を迎えようとしていることに対して率直な期待を述べたにすぎないが、原発に対するスタンスは、環境へのスタンスの踏み絵のような面がある。どうやら私は踏み絵を踏んでしまったらしい。 4Sだろうが5Sだろうが、あるいは1000S(スーパースーパースーパー…セーフティ、スモールスモールスモール…、シンプルシンプルシンプル…)だろうが、原発は反対と書くべきだったかもしれない。 原発の安全性は飛行機の安全性とちょっと似ている。飛行機の事故リスクは10万フライトに1回と言われる。自動車や自転車に比べたら、桁違いに事故リスクが小さいが、いったん墜落事故が起こったら、全員死亡の重大事故となる。限りなく発生リスクがゼロに近い墜落事故が怖くて飛行機に乗れない人は確かにいる。 原発というと核廃棄物の問題をあげつらう人が多いが、将来もっと安全な再処理技術が確立するまで、核廃棄物の地下処分場(地下貯蔵所)の管理を続けていくことに、それほど重大な問題があるとは思わない。高レベル核廃棄物(再処理を待っている使用済燃料中間貯蔵物)の半減期が1万年だからといって、何万年もずっと再処理技術の革新がないまま管理を続けなければならないということはたぶんないだろう。ちなみに4Sはウラン238をプルトニウム239に変えながら使い切ってしまう高速炉なので、核廃棄物はかなり少ない。(また踏み絵を踏んだかもしれない。) 話は飛ぶが、私は小学生の頃から、「尊敬する人物は?」と尋ねられると、ガリレオ・ガリレイかアインシュタインだと答える、ばりばりの理系人間だった。小学生のうちに中学校の理科の教科書は全部読み終えていて、高校の教科書を読んでいた。 中学1年生の頃、尊敬するアインシュタインが世界政府主義者だったのを知って、左傾した。マルクスを勉強し、赤軍思想(世界同時革命論)も知り、自衛隊は明らかな違憲だと主張するミニアカになった。 ところがどういう心境の変化があったのか、中学3年生になると、左翼思想を見限って転向した。 その頃の社会科の教師はたいてい日教組に入っていて、共産党員、社会党員も多かった。授業中に、何も知らないウブな中学生を前にして「自衛隊は違憲だというのを知っているか」と語りだした教師がいた。 私はすかさず手を挙げた。「憲法9条の字面だけで、自衛隊が違憲だと言っても意味がありません。日本だけが軍備を放棄しても国際平和は実現しません。現実の国際状況に対応すべきです。いま自衛隊が違憲だからと廃止することには反対です」私は中学生ながら、戦後の内閣の警察予備隊、自衛隊、日米安保などについての国会答弁の変遷をすべて読んでいた。それをふまえての反論だった。 教師は絶句し、授業は終わった。 私の思想の転向には亡父の影響もあるかもしれない。父は陸軍機械兵(見習将校)として従軍し、戦後はソ連軍によってシベリアに抑留された。ロシア語を覚えてしまった父は、モスクワの共産党員養成学校に送られ、共産主義革命を扇動せよという使命を帯び、帰国船団副団長として母国に帰ってきた。当然、GHQに呼び出され、監視下に置かれた。 父はモスクワで洗脳されてはいなかった。帰国するためのニセアカだったのだ。「共産党の言っていることは正しいかもしれないが、あれを実現するのはむりだ」それが口癖だった。 父は、私が学生のときにひき逃げ事故で死んだ。 環境問題をやっている人の中には、リスクが(論理的に)0でなければだめだという人がときどきいる。 実際、産廃の処分場が環境汚染を生ずるリスクがゼロでないといって起こされた訴訟が無数にある。確かに認めなければよかったと思う処分場はあるから、がんばれと言いたくなるときもある。だけどどうして訴訟になっているのか理解できない処分場もある。どうしてなんですかと聞くと、この地区では処分場は一切認めないからといった、聞く耳を持たない答えがかえってくる。 銚子の不法投棄問題を担当していたとき、私たちのチームはダンプ1台の撤去からはじめた。完全撤去でなければ意味がないと住民は不満だった。 だけど、たとえ1台でも0台よりはいいと、私たちは1台撤去を毎日積み重ねていった。1台は10台となり、100台となり、1年後には1000台となったが、完全撤去にはまったく届かなかった。 ところが、毎晩何百台もきていた不法投棄ダンプが、たちまち私たちのチームの担当地区から消えた。撤去させられてはかなわないと、ダンプが自分から逃げ出したのだ。 私はこれを1点主義の勝利だと思っている。1回で100点を取ることはできなくても、1点を100回取ることはできる。不法投棄ダンプは私たちの1点主義に降参したのだ。 最後にまた、話を原発に戻そう。原発のリスクは(論理的に)ゼロではありえない。だから、なくてすむならないほうがいいことに異論をはさむ余地はない。だけど、現実に日本の電力の3割は原発で、いますぐなくてすますわけにはいかない。もしも原発で作った電力が気に入らないというなら、自家発電で灯りをともし、太陽電池でパソコンの電源を確保する現代のディオゲネスになるしかない。(発電機や太陽電池を作るための電力は無視するとして)電力会社に依存しないで生きていくことは難しいことではない。ホームレスならみんなそうしている。だけど、ディオゲネスにはなれないなら、原発が3割という現実を受け入れたうえで、原発をやめる方向に進むのか、原発のリスクをゼロに近づけていく方向に進むのか決めないといけない。 スリーマイル事故とチェルノブイリ事故のあと、フランスと日本以外のほとんどの国は原発の開発をやめる方向に進んだ。ところが今になって、また原発が復権し、フランスと日本の原発関連株が上昇している。世界ではこれから毎年32基のペースで原発が建設されていく予定だそうだ。つまり約10日に1基だ。それを環境に挑戦する悪魔だとして反対運動が組織されるのは当然のなりゆきだと思う。その一方で、政府や電力会社や重電会社は、原発こそ地球温暖化を解決してくれる天使だというのだから面白い。 子供の頃、毎日のようにロボットのアニメを見ていた。ロボットの心臓にはたいてい小型原子炉があった。 二足歩行ロボットは不可能だと言われていたのに、最近では1万円のおもちゃだって立派な二足歩行をするようになった。しかし、心臓の大きさの原子炉はむりだそうだ。バケツくらいの大きさがないと、ウランが臨界にならない。ただ心臓はむりでも、コンピュータがそうなったように、原発もまた小型化に向かって進化をはじめたような気がしている。 どんなに小型になっても悪魔は悪魔なのか、それとも天使になれるのか、それは人類が滅亡したあとでなければわからないかもしれない。 先頭のページ 前のページ 次のページ 末尾のページ |
渋柿庵主人 |