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渋柿庵日乗 三七


参院選直前特集(5) 農業について

2010年6月16日
 総選挙の時の民主党のマニフェストの最大の目玉は、農業改革だと私は思っていた。もしもマニフェストに書かれていたことを断行していたら、小泉内閣の道路公団民営化や郵政民営化など目じゃない戦後最大級の改革になるはずだった。
 ところが残念なことに、思いつきで書いただけだったのか、その後、何も進まなかった。
 農業問題はとても複雑で、○○民営化とか、○○無料化とか、○○手当てとか、一語ではすませるのが難しい。しかし、今の世論は二行にわたる長文に辛抱できない。説明するほうも面倒くさいし、聞くほうも面倒くさいので、農業改革なんて、もういまさら手遅れ、ちょっと怖いけど中国野菜を買えばいいじゃないのってことで、片付けられてしまっている。
 自民党政権は、農業問題に対して、きちんとした政策を打ち出せないできた。非自民党政権に一番本気で取り組んで欲しいのは農業問題だ。

 日本の農業が抱えるさまざまな問題のうち、トップ3を挙げるなら、食料自給率、貿易(国際化)、農業後継者だと思う。



 食料自給率はカロリーベースで40%、これはもちろん先進国で最低の部類だ。アメリカとフランスは100%以上で、ドイツも90%ある。食べ残しをしなければもっと自給率は高められるという人がいるが、食べないで棄てられている食料は50%くらいだ。食べ残しを0%にしたとしても、日本の食料自給率は100%にはならない。つまり、輸入食料がストップすれば、日本は飢餓状態になるわけだ。これが食糧安全保障という問題だ。
 輸入がストップすることはありえないから、食料自給率なんか気にすることはないという人もいる。実際、食料自給率を気にしながら毎日生活している人はまずいないだろう。しかし、個人が気にしないということと、政府が気にしないということは次元が違う。政府には気にしてもらわないといけない。

 農産物の貿易に関しては、輸入が400億ドルくらい、輸出が20億ドルくらいで、大幅な輸入超過だ。輸入額は、先進国はどこもこれくらいあって、日本が特別多いわけじゃない。日本の輸入額はイタリア、フランス、オランダと同じくらいで、ドイツとアメリカは日本より多い。日本の問題は輸出が少ないことだ。つまり、日本の農業には国際競争力がない。日本の農作物に魅力がないわけじゃない。むしろ世界一美味しいと思うのだが、価格が高すぎるのだ。
 ほとんどの先進国では、輸入額と輸出額が拮抗している。自国の特産品を輸出し、自国では作れない他国の特産品を輸入する。これが健全な農産物貿易だが、日本の農政には、農作物の輸出入をバランスさせるという発想がほとんどなかった。その結果、日本で作ったほうがずっと美味しい日本伝統の野菜まで輸入している。これはどう考えたって国民にとって不幸なことだ。
 補助金を使って価格を下げてまで、どうして外国に安い野菜を売ってあげる必要があるのかという意見もあるが、そうではない。国民に安くて美味しい野菜を十分に供給するには、生産を過剰気味にしなければならない。その余剰分を輸出し、その外貨で外国でしか採れない野菜を買うのが、バランスのとれた農産物貿易なのである。国民に高い野菜を売りつけ、しかも十分な量を供給できない日本の農業は、農家のための農業ではあっても、国民のための農業ではない。その証拠に、何がしかでも農地の恩恵を受けている地主は今の農政で何も問題ないじゃないかと言うのに対して、農地を持っていない人が農政を褒めるのを聞いたことがない。農地を持っているかどうかで、農政の評価は真っ二つに分かれる。



 農業後継者問題は、農業従事者の高齢化問題と表裏一体だ。農業従事者の年齢別割合は、75歳以上が20%、65歳以上が50%にもなる。著しい高齢化だ。この数字から言えることは、今後20年くらいの間に、農家数が急減するだろうということである。
 農家の数を現状で維持することは、人口学的にもはや不可能である以上、今後は少ない農家でせめて現在の生産を維持しなければならない。つまり、否が応でも経営規模拡大が必要なわけである。農家に頼らず、家庭菜園で自給自足すればいいじゃないかという意見は、政策的には笑い話にもならない。農業後継者問題は、農家の嫁探しといったことじゃなく、農業の構造改革の問題である。



 これらの3つ問題には共通の原因がある。もうお気づきのことと思うが、日本の農業が小規模経営だということである。小規模だから生産性が低く、価格が高い。みんなで使い回せばいい農業機械も、各戸でむだに持っている。そのために日本の農作物は一部のブランド米やリンゴなどの果物類を除けば国際競争力がない。安い輸入穀物や輸入野菜に圧され食料自給率がどんどん下がっていく。小規模農家には将来性がないので後継者ができない。それでもスーパーで買う野菜は高くてまずいから、わずかでも農地があれば兼業農家を維持しようとする。そのため小規模経営が漫然と続くのである。
 もちろん、兼業農家にも言い分がある。兼業でも農業の担い手があるから、農地が放棄されず、農業が守られているというわけだ。日本の兼業農家の割合は90%で、そのうち第二種(農業収入が主体じゃない兼業農家)が80%という驚くべき数字だ。つまり、兼業農家を否定したら日本の農業を否定してしまうことになる。
 しかしながら、兼業農家でなんとかごまかしてしのいできた農政も、もはや限界にきている。いまの構造のままでは、もうほんとうに後継者がいないのだ。こうなることは当然予測できたのに、有効な手を打ってこなかった。なんとなく年金問題でも聞いたような話だ。

 そうなってしまったのは、危機感があるのは専業農家だけであって、農業以外に安定した所得がある兼業農家には危機感なんかないからである。
 私も田舎育ちで、実家には田畑もあるからわかるが、そこそこ農地を持っていて、農作業は親に任せ、自分は親が弱るまで会社か役所に勤めるというのが、30年前も今も変らない田舎の普通のライフスタイルだ。この普通さが実は農業をだめにしているということに気がついている人はまずいない。だって兼業農家は、ダブルインカムで、新鮮な野菜が毎日食べられて、いざとなったら土地を売ることだってできるんだから、実にハッピーだ。「三日やったらやめられない」のが兼業農家なのだ。
 だが、その結果が食料自給率40%だ。責任は兼業農家にではなく、無策の農政にある。兼業農家は自分の食料自給率が100%だからちっとも気にならないかもしれないかもしれないが、国家はそれでは困るのだ。



 「○○○化」の一語で農業改革のテーマを語らなければならないとすれば、ここに入る3文字は「大規模化」である。
 実は百年も前から農政の世界では同じことが繰り返し語られてきた。民俗学者の柳田國男は、農林官僚だったころに、日本の農業の経営規模の平均を3町(3ヘクタール)にすべきだと語ったそうだ。これはほぼ現在のEU並みの経営規模だ。柳田の勘が鋭いのは驚くばかりだ。残念ながら、日本の農業の経営規模は柳田の理想からはほど遠く、現状はその10分の1だ。
 農水省だってそんなことは百も承知だから、大規模化の政策メニューはいろいろ作ってきた。東北や北海道のように、大規模化が進展している地域もあるにはある。だけど、農政の基本政策は、今も昔も「狭い農地でもかすかす食える農業」を守ることである。守りたくはないのだが、守らないと農家がなくなってしまうのが怖いのだ。
 「ゴールデンウィークに田植えで自然とのふれあい」、「農地でちゃっかりアパート経営」、「定年後の晴耕雨読のたのしみ」、さらには「一坪観光農園」が、日本のトレンディーな農業だ。そんな片手間農業で、食料自給率が上がるはずもないし、後継者が育つはずもない。無農薬野菜宅配ビジネスの人気は上々らしいが、宅配の物流コストを考えると農業の明日を担えるとは思われないし、そもそも無農薬なのに虫食いの跡がないキャベツなんて、農村に暮らしたことがなくっても、ありえないことだと考えればわかりそうなものだ。



 農業の小規模化は、戦後の農地解放で完成した。戦前、戦中までは大地主と小作人というのが、日本の農業の構造だった。地租が主たる税金の時代だから、大地主は高額納税者であり、貴族院議員や県会議員といった政治家も多かった。一方、小作人は税金を払わず、選挙権もなかった。
 戦前の農林省は、地主ではなく、小作人の味方だった。小作人が税金を払い、選挙権がある一人前の国民になること、これこそが戦前の農林官僚の悲願だった。なかなか涙ぐましい話だ。
 終戦後の占領時代に、この悲願をかなえる千載一遇のチャンスがやってきた。農地解放だ。他の占領政策とは違って、農地解放は農林官僚が企画したものだった。だから、財閥解体が中途半端に終わったのに対して、農林官僚は農地解放を徹底的にやりとげてしまった。最初は地主に農地の任意の解放を求めたが進展しないので、農林省が農地を強制的に召し上げて小作人に下げ渡した。買い上げ価格は戦前の土地台帳の評価額だった。一反(1000平方メートル)数百円だ。戦前ならそこそこの価格なのだが、戦後の狂乱物価によって、長靴一足が700円になっていた。一反の農地は長靴一足より安い価格で小作人に分配された。つまり、事実上、農地を地主から強奪したのである。
 こうして大地主は、無数の小規模地主へと分解され、小規模独立経営時代がはじまった。しかし、小規模では農業収入も高が知れている。幸い、高度経済成長で、田舎にも工場が増えた。兼業農家90%の下地はこの時できたのだ。



 戦前は農業会という地主の組織があった。農林官僚は農地解放と同時に農業会を解体するつもりだったが、結果的に農業会は生き残って農業協同組合となり、いまや地主様となった元小作人を組合員に迎え入れた。
 農協は、農業資材供給、農産物販売、金融、共済(保険)、互助事業を独占し、小規模経営農業を支えた。少量の資材をいちいち宅配し、貯金や共済の入出金も自宅に事務員が出向くシステムだったから、とんでもない高コストだった。ライバルは似たようなシステムの郵便局や生保だったが、農村では農協のマンパワーが群を抜いていて、第二の役場という感じだった。実際、役場か農協に勤めているというのが、田舎町のステータスだった。
 田中角栄の日本列島改造論以後、農地がどんどん住宅団地や工業団地として開発される時代になると、農業金融の元締めである農林中金(農林中央金庫)は、宅地化された農地の莫大な担保力を背景に、郵便局に負けない巨大金融機関に成長した。農林中金は潤沢な資金力で、農地を転用して起業する農家を支え、国際的な機関投資家としても名を馳せるようになった。しかし、かつては住専の破綻で打撃をうけ、最近もアメリカの住宅バブル崩壊・リーマンショックでかなりの打撃を受けてしまった。郵政民営化と住宅金融公庫民営化の後、財務省・金融庁からすら独立している農林中金は、日本の金融にとって最後にして最大の聖域である。

 次回も農業の話を続けたい。

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渋柿庵主人