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渋柿庵日乗 四一


参院選直前特集(8) 教育について(その2)

2010年6月21日
 前回は、教育にとっては教師がすべてなので、大学に教師選択性を導入すべきだという提言をしたが、すぐれた教師とはなにかについては論じなかった。
 そこで今回は、教師論である。

 人間には自分を防衛しようという本能があるので、自分の立位置から(つまり自分の都合で)世間を見る傾向から逃れられない。床屋は床屋の立位置から、農家は農家の立位置から、営業マンは営業マンの立位置から、社長は社長の立位置から、公務員は公務員の立位置から世間を評価する。自分の立位置を否定することは自虐的であり、偽善的である。
 ただし、心理学者のジャン・ピアジェのように、自分の立位置から離れることを「脱中心化」とよび、自分中心の世界観から離れれば離れるほど、人間はより高い発達段階に上っているのだと考える人もいる。
 たとえば資産家に生まれた政治家が、その全資産を投げうって貧困者の解放のために尽くしたとすれば、脱中心化した高い次元の発達段階にいる人だということになるだろう。それに対して親からお小遣いをもらって首相になったラッキーな政治家は、脱中心化していない(親離れすらしていない)低い次元の発達段階にいる人だということになるだろう。
 ジャン・ピアジェにとっては、すぐれた教師とは、すぐれた脱中心化の導師だということになる。



 教師の役割とは、生徒にまだ見えていない世界を見えるようにしてあげることだと、私は思っている。見えるようになるのは生徒自身であり、教師はそのきっかけを作るにすぎない。
 これは簡単なようで、そうではない。教師が見えていない物を、生徒に見せてあげることはできない。つまり、教師は見えていなければならない。

 デザイナーをしている私の妻は、学生時代、写生をしているときに、教師が後ろに立ち、「あなたにはまだ色が見えていない。あなたが描いている絵はいろんな絵の具を使っていても、色のないデッサンと同じだ。青だって青だけじゃない、白だって白だけじゃない、もっとよく見たら、いろんな色が見えるはずだ」と言われたことがあるそうだ。
 何を言ってるのかわからなかったが、それから数年後、突然、見えていなかった色が見えるようになり、そのとき教師に言われたことの意味がわかったそうだ。
 おそらく、モネにはモネにしか見えない色があり、マチスにも、ゴッホにも、やっぱり彼らにしか見えない色があるのだろう。彼らが描いた絵を見れば、色彩の美しさに打たれるが、実物の花を見ても、彼らに見えている色は見えない。彼らの絵画を通じて、彼らに見えているだろう色を想像することしかできない。



 私たちは教育によって、さまざまな物の見方を学んでいく。科学と、歴史と、文学と、スポーツでは、物の見方が違う。学問の数が多いのは、物の見方の種類が多いからである。
 音楽では生徒が教師を超えてしまうことはよくある。自分には聞こえない音が聞こえる生徒に出会ったら、もうその教師はその生徒に何も教えられない。せいぜいできることは、もっとハイレベルの教師を紹介することだけだ。
 小学生までは、生徒が教師よりも深い視野を持っていることはめったにない。だが、中学生となり、高校生となれば、だんだん教師を超える生徒が増えていく。
 中学生の頃の思い出だが、英語教師から国語教師へと転向した先生がいて、その理由をこう話していた。「英語の授業では生徒から学べないけど、国語の授業なら生徒から学べるから」
 大学となれば、すべての面で教師が学生の視野を凌駕することは不可能になり、院の場合は、もうほとんど学生と教師は互角といっていい。

 学生と教師の実力が接近する大学では、学生の視野に応じて、教師を選べるようにすべきたというのが、前回の私の提言だった。さもないと、教えてもらうことがなにもない教師の前で我慢を強いられるだけの授業になってしまう。
 文系の学部では、教師を尊敬できない学生がかなり多いように感じる。理系や医系の学部、技術系の専門学校では、学ぶべきことが山ほどあるので、教師の威厳は保たれている。それでも院になると学生と教師の実力が伯仲してくるため、教師を尊敬している院生は少なくなる。
 尊敬する先生がいないということは、自分が優秀だということの裏返しなので、悲しむべきことではないが、さらに高いレベルへと導いてくれる教師にめぐりあっていないという意味では不幸である。



 学ぶということは、すでに発見された世界の見方を学ぶということである。それだけで終わってしまうなら、生涯学習である。逆に言うと生涯学習とは、まだ知らない世界の見方を学び続けるということである。
 歴史に名を残す人とは、まだ発見されていない新しい世界の見方を自力で発見する人だ。もうそこには導いてくれる教師はいない。自分で自分の道を拓いていくしかない。
 ゲーテが若きショーペンハウエルを自分のサロンに招いたとき、女性たちが「つまらない人ね」と田舎者扱いするのを聞いて、ゲーテはこう言ったそうだ。
 「彼をそっとしておやりなさい。彼はここにいるすべての人を超えて進む人なんだから」
 ゲーテはきっとショーペンハウエルが、自分の見えていない世界を見ていることに気がついていたのだろう。やがてショーペンハウエルはゲーテと離反し、ゲーテをも超えて進んでいくことになる。

 生徒に何が見え、何が見えていないかを見抜き、自分が見えてる世界を生徒にも見えるようにしてあげるのがすぐれた教師だ。学問だけじゃなく、お料理教室だって、ベリーダンス教室だって同じで、教師が見えている世界が、生徒は見えていない。
 見えていないのに、見えているふりをしているだけの先生もいる。先生が見えていないことを見抜くのがすぐれた生徒である。教育の現場とは、先生と生徒の見抜くか見抜かれるかのタイマン勝負である。その緊張感がなくなってしまえば、教育はつまらないものになってしまう。



 話題は変るが、「新参者」のテレビドラマ化がきっかけということもあるが、東野圭吾の小説が面白いんだと、最近、妻に言われた。妻は海賊訳「幻夜」を、東野圭吾の作品とは知らずに、I−Phoneからダウンロードして夢中で読んでいて、あとから作家が誰か気づいたようだ。
 妻曰く、「物の見方が変っている。これが小説家だ。ただし、女性の服装や化粧は観察がまだ足らない」ん〜ん、参った。
 私の「ZERO」なんかは、まともすぎてつまらないようである。
 確かに書店に行ってみると、ミニコーナーができていた。悔しいので、ちょっと東野圭吾風に、ZEROも微細描写にしてみようかなと思うこのごろである。

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渋柿庵主人